『許浚』『沙也可』の時代背景をなす李朝時代とは
李朝時代とは、1392年李成桂が高麗を滅ぼして成立し、1910年まで続いた朝鮮の王朝・李氏朝鮮の略称である。李朝が成立した時期は、日本では室町幕府が確立した時期。中国では約20年前に元が滅びて明が成立している。朝鮮の高麗から李朝への転換は、東アジアでの大きな変動の一環をなしていた。この李朝は518年間もつづいた王朝であった。李朝終焉は、1910年日韓併合による。日本との関わりを思わずにはいられない。
李朝時代は、
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支配体制が確立した初期(1392〜1469)
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体制が動揺する中期(1470〜1607)
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体制が解体していく後期(1608〜1860)・
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朝鮮近代化のはじまる末期(1860〜1910)4期に区分される。
許浚(1539?〜1618?) 、沙也可(金忠善1570〜1643
)が生きた時代は、ちょうど李朝の支配体制の動揺し、解体していく時期ということになる。
初期の支配体制の確立期(1392〜1469)。
李成桂は1392年に高麗国王(恭譲王)を追放して新王朝を樹立。国号を朝鮮、国都を漢陽(のちに漢城と改名・現ソウル)に定めた。15世紀前半には旧勢力との争いが続いたが、1469年には「経国大典」を公布し、支配体制を整えた。議政府をはじめとする中央官制のほか、地方制度を整備。行政面を重視した方向へ社会を編成替えした。行政区画である面里制や、治安維持のための隣組制度である隣保制(五家統制)、軍役・徭役の基準として16歳以上の男子に牌を持つよう義務づける号牌法などを実施した。
これらを通して、中央政府による地方への直接支配が強められた。地方の地主層である在地勢力に対しては、科挙を通じて両班官僚に登用するなどしながら国家支配機構の支柱に組み込む政策をとる。このようにして李朝は、両班を中核とする中央集権的な官僚支配体制を築いていった。李朝は、両班国家と呼ばれることもある。
支配体制の動揺期(1470〜1607)
新興の両班勢力である士林派政権の確立(1565)に見られる新旧勢力の交替がある。
交替を象徴する税制・財政の大改革が、1608年大同法の成立である。
遠隔地市場が主体であったが,15世紀後半には地方や村にも市場(場市)が開かれ,16世紀末〜17世紀初めには各地の客主を中心に邑(郡県)ごとに定期市(五日市)が開かれるようになっていた。
大同法はこのような商品経済の発展を背景とし,農民の貢納・労役を土地課税に切りかえたものであり、これによって李朝の財政も安定した。大同法は、1608年にまず京畿道で試験的に実施され,以後,平安・咸鏡の2道を除く各道で順次実施された。
大同法に至る社会変動の時期には、李朝功臣の勲旧派とよばれる中央貴族層の既成官僚と、儒学を重んじる在地両班層で新進官僚である士林派との間に、党争がおこった。士禍とよばれる大規模な弾圧と、それにたいする抗争が1498年、1504年、1519年、1545年の4回おきた。けっきょく、1565年に士林派が勝利し政権を掌握する。
文禄・慶長の役。朝鮮では壬辰・丁酉倭乱
朝鮮社会がたいへんな被害をうけた文禄の役 は 1592年 ( 文禄 元年)に始まって翌 1593年 (文禄二年)に休戦し、講和交渉決裂によって始まった 慶長の役 は 1597年 ( 慶長 二年)に始まり、 1598年 (慶長三年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。
菊池英昭(韓国・朝鮮研究家)