結書房は 新しい時代の「架け橋」となる作品を中心に刊行する 出版社です

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許浚<ホジュン>
『 許浚(ホジュン) <上> 医の道に辿りつく 』 
『 許浚(ホジュン) <下> 心医の域に達する 』 
李恩成著/朴菖熙訳

時代は朝鮮王朝中期。2度にわたる秀吉の朝鮮侵攻。飢えに泣き、病に苦しむ民衆。激しく揺れる時代のるつぼの中で、過酷な身分差別に抗しながら、医の倫理と真実の愛を求めてやまない一人の男がいた。その名は『許浚<ホジュン>』
世間のいかなる名利にも同ぜず、ひたすら人間の生命にのみ己を捧げる『許浚<ホジュン>』の姿。
本書は、漢方の本家、中国の漢方書「本草綱目」を凌ぐと評価された朝鮮医学の集大成、全25巻の医書=「東医宝鑑」を著した実在の名医・『許浚<ホジュン>』の波乱の生涯を描いた感動のドラマである。
韓国でテレビドラマとなり視聴率60%を獲得。韓国の人々が涙し、感動したその底流にある想いを私たちは共有できるだろうか。韓民族の心を知る待望の書。

上巻 下巻
第1章 竜川脱出
第2章 名医・柳義泰
第3章 薬草採り七年
第4章 息子の涙
第5章 野火
第6章 秘伝の奥義
第7章 托鉢僧・金民世
第8章 いざ、漢城へ
解説 現代に蘇る心医
第9章 師匠のお呼び
第10章 対決
第11章 密陽の天皇山
第12章 内医院
第13章 真剣勝負
第14章 医書を著す夢
第15章 倭乱の渦
第16章 医女・美史
補章 その後の許浚(朴菖熙)
著者/訳者プロフィール
著者 李恩成<イ オンソン>
1937
東京生まれ。在日2世
1945
韓国へ帰る。小学校3年まで在学
1967
東亜日報新春文芸シナリオ部門「錆びた線」当選
1969
第15回アジア映像祭で「あなた」で最優秀脚本賞
1973
「世宗大宗」(KBS放映)で大韓民国芸術祭脚本賞受賞
1975
「忠戦」(KBS)で大韓民国演劇映画TV芸術賞最優秀TV脚本賞受賞
1976
「執念」(許浚物語-KBS)で第12回大韓民国演劇映画TV芸術賞最優秀シナリオ賞受賞
1984
「開国」(李成桂物語-KBS)大韓民国演劇映画TV芸術賞TV脚本賞受賞
1988
心臓病で他界(享年51歳)
1989
「二つの夕陽」で第25回百想芸術大賞特別賞受賞
1990
「小説東医宝鑑」(全3冊、創作と批評社、ソウル)

主な作品に「礼成江」(1976 MBC)、「巨商林尚沃」(1977 MBC)、等身仏(1981 KBS)、「旌善例」(1985 KBS)、女心(1986 KBS)などのシナリオがある。
訳者 朴菖熙<パクチャンヒ>
1932
韓国密陽<ミリャン>生まれ。
1951
慶北中学校(6年制-大邱)を終えて渡日。一橋大学経済学部。東京都立大学大学院で日本史・東洋史を学ぶ(修士課程)。一橋大学大学院社会学研究科で思想史を学ぶ。社会学博士。
1968
帰国し、梨花女子大学校法政大学・韓国外国語大学校人文大学で20余年経済史、韓国の思想史、韓日関係史などを講義。
1995
4月、国家保安法に問われ、3年半の刑を服役中、3年11ヶ月目に赦免・復権される。
1996
韓国外大の教授を免職

編著書に「史料国史」「韓国史の視座」、高麗史、政治史や李奎報及び「竜飛御元歌」などについて若干の論文を書く。
1959年以来、在日コリアン問題(小松川事件)、独島(日本でいう竹島)、松代大本堂地下壕、強制連行など戦後処理問題、韓日青年学生の友情交流の問題などに日本人とともに関わっている。韓国内では「国民」学校の名簿廃止のキャンペーンを行った。

 
四六判・上製 
512ページ
定価 本体1,900円(+税)
発行:結書房
四六判・上製
544ページ
定価 本体1,900円(+税)
発行:結書房
>>購入する
 
『許浚』の医術の師・柳義泰のことば 
「医者のうち、その第一を心医と称する。心医とは、相対する人をして常に心を安らかにさせる人格の持ち主である。その医者の目の色に見入っているだけで、病人は心の安らぎを感じる境地になる。病人を真心からいたわる心がけがあって初めて可能な人格の医者、それが心医なのだ」
医書「東医宝鑑」序文より
「朝鮮は東方に位置し、医薬の道は綿々と続いてきました。そこで、わが国の医学を東医と呼んでしかるべきです。宝鑑とは万物を明るく照らし、その形態はけっして隠されません。今、この本を開けば、吉凶と軽重があたかも明鏡を見るごとくになるでしょう。よって東医宝鑑と名付けました」

 

著者 李恩成
訳者 朴菖熙
訳者あとがきから
  本書は李恩成『小説 東医宝鑑』(上中下三冊、「創作と批評社」刊、韓国・ソウル市、1990年)の全訳である。日本語版では『許浚<ホジュン>』と改題し、上下二冊本とした。
 原作者・李恩成氏は、1936年、在日朝鮮人二世として東京に生まれた(詳しい地名は不祥)。戦後、帰国したが、その暮らしはたいへん貧しかったようである。さらに50年の6・25動乱(朝鮮戦争)が重なり、結局、学校で学べたのほ小学三年までで、彼は生涯、独学の人であった。 
 1966年、彼は某放送局のシナリオ公募に応じ、その作品が認められる。以後、九編が受賞し、シナリオ作家としての地歩を築いた。彼はこの他に15編のシナリオを遺している。そのテーマはおしなべて、自国の歴史上に巨歩を刻した人物を掘り起こし、創作化今日に蘇らせるものである。許浚<ホジュン>もそのような主人公の一人であった。 

日韓を結ぶ虹として
 私(朴菖熙)は1992年の春、韓国外国語大学枚の教え子に勧められて、はじめて本書を読んだ。
 小説の展開が急テンポで、一気に読み進んだ。そして最も私の胸中深く突き刺きってきたのは、朝鮮人の醜さとひ弱さ、汚辱にまみれている"自画像"が描き出きれていることであった。私自身をふくめて、隣近所にざらに存在する同族の生の姿であり、性(さが)であった。私は思わず顔を赤らめ、恥ずかしい思いがするのを自分でもどうすることもできなかった。
 しかし同時に、小説はその反面の、至善至高を志向し、言葉ではつくせない凄惨な状況においても凛々しく生きていく同胞の姿や性(さが)をも描き出していた。
 一言で言えば、この小説は朝鮮人の深層をたぐり寄せて満天下に露にしてみせているのだと私には思えた。そんな感想を抱い私に、一読を勧めた教え子(河南根ハナングン)が、改めてこの小説を日本語に翻訳して出版すべきであると口説いた。
 私は数日間というもの、教え子の勧めの含意するところを考えてみた。
……<中略>……
  私の眼前に、お二人の先生の姿が浮かんできた。私がかって師事した、一橋大学の上原専禄先生と西順蔵先生のお二人である。お二人から受けた学恩もさることながら、私は格別にご厚情をたまわっていた。にもかかわらず、いまだに何一つご恩返しが果たせぬままになっている。
 「もし、私がこの小説の翻訳を果して、先生方の深く愛された日本の人々に、小説に形象化さた作者の真情を、韓国からのメッセージとして届けられるのであれば、あるいはご恩返しの一端となり得るかもしれない……」
 私の胸裡に去来したのは、こうした思いであった。私は自身の非力を顧みず翻訳にかかることにした。今にして思えば、確かに海で泳ぎはしてもダイビングなどした覚えのない者が千仭の岸壁から跳び下りたようなものとでも譬えられようか。幸い、原作者のご遺族も、快く私に翻訳をゆだねてくださった。ご遺族に対して、この場をかりて、記して謝意を表したいと思う。

差別的表現について 
翻訳の作業を進めていく中で、私の気がかりになったことは、差別的とみなされる表現の問題であった。
 とくにこの小説中のハンセン病(作中では大風瘡または癩風)とその患者を取り上げている部分である(第七章三〜八節など)。今日におけるハンセン病についての医学的知見と人権の観点からすれば、差別的に表現されているように受けとめられるのではないか、そうした危惧を私は抱いた。
 しかし、原作者がこのような表現をあえてしたのも、その差別の実情を含めて、その病を根元的になくしたいという念願があったからだと思われてならなかった。そこで、私は原作者の意図を生かすべく、当該部分をそのまま訳出した。ただ、原文のムンドゥンビョン(奇病)はナビョン(癩風)に変えた。さらに原作者は世に差別的身分制度があってはならないと念願して主人公を描いているのだが、その点にも洞察が加えられるならば、癩風を描く原作者の意図するところもおのずと受け容れていただけると思う。どうか深いご理解をいただきたい。

 本書が日本と韓国(朝鮮)を結ぶ、消え去ることのない平和と友情の虹の一端にでもなれば、訳者としてそれ以上望むことはない。

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