韓のくにの友鹿洞<ウロクトン>を訪れる
中澤俊子
厳冬の折り韓国への旅を思いたったのは司馬遼太郎氏の言葉が脳裏を離れなかったからかも知れない。「歴史を知るということはその土地に自らの足で立ち、風に吹かれ景色を見るということから始まる」というような言葉であったように思う。『街道をゆく』シリーズ第2巻の『韓のくに紀行』を読んで、ふと自分がその風景の中に身を置いているように思えてくるくだりが好きになった。
「七人の翁」の中で語られている、掛稜の前の松林で農夫らがまるで上代に生きる人のように立ち上がっては肩で調子をとり、歌い互いを愉しませあったという野遊びの風景。もう一つ「慕夏堂<ムハダン>」、現在は「友鹿洞<ウロクトン>」と呼ばれている里。このシリーズを読んで心引かれた私は、夫と2人で大邱<テグ>の南のターミナルからバスにのり、約1時間、終点の村の小さな広場に降り立った。
2人で小道を行きつ戻りつしながら降倭の村、沙也可の村を見回し、また広場に戻った。小さな雑貨店を目にし、そのまま店に入ると奥から穏やかで上品な顔の背筋のしゃんとした老人が現れた。「ここは沙也可の村ですか」と尋ねると「そうです」と、きれいな日本語が返ってきた。まぎれもなく沙也可の村であった。
29年前(52歳)、司馬氏に「ひどく」若々しいと描写されているが今(82歳)でも若々しい。三十代、四十代はどれ程の男前であっただろうかと思える。顔は面長、ゆったりした表情、切れ長の目元はすずやか、額が広く鼻が高い。民族服のパジ(ズボン)をはいている。氏の方から「写真を撮りましょう」と誘われ3人で写真におさまった。まったく自然体である。現在は小学校の校長職を退き畑仕事と「韓国歴史共同研究会」の仕事に取り組んでいる毎日なのだそうだ。
氏に誘われるままに書斎で話すこと2時間あまり、氏は何度も日本に招請され、各地のシンポジウムで講演を行っている。新年の1月2日、私達の突然の訪問を快く受けてくれた氏は「特に日本の高校の教師に会いたかった」と言った。書斎には司馬遼太郎の著作集のほとんどすべて、その他日本から送られた様々の書物、そして高校の社会科、日本史教科書が山積みであった。
その中の一冊『高校日本史A』平成11年度版(実教出版)をとり上げ「日本の教科書に初めて掲載されました。秀吉の朝鮮侵略の際に朝鮮側に投降した加藤清正の武将・沙也可の名がやっと載りました。他の教科書では触れられていませんが今後はこの歴史の真実がどの教科書にも載ることを願っているので是非とも高校の先生方にこのことを知っていただきたい」と金氏は熱心に語った。
現在日本の約330の高校で36万人の生徒がこの教科書を使い始めているという(平成11年6月17日付/神戸新聞)。
1992年10月にNHK総合テレビ『歴史発見・朝鮮出兵400年、秀吉に反旗をひるがえした武将沙也可』が放送された。
1592〜97(文禄・慶長の役、韓国では壬辰・丁酉倭乱)にかけての長い戦乱に疲れた日本兵が儒教文化の平和秩序に憧れてと同時に、李氏朝鮮側も儒教文化を慕って投降してくる秀吉軍の日本兵を拒まなかった。降倭は朝鮮国家と民衆によって受け入れられた。儒教文化は民族や国の違いを越えて一人ひとりの降倭の心を捕らえたといえるだろう。
1970年、かつての日本武士の村であると聞いてこの友鹿洞を初めて訪れた司馬氏に対し村の一人の老翁がそのことを取り上げて「こっちからも日本へ行っているだろう。日本からもこっちに来ている。別に興味をもつべきではない」とにべもなく言ったという話が私には印象的である。
1992年5月、沙也可一族の子孫4,000人のうち1,300名が韓国各地から友鹿洞に集まり、400年祭を行い顕彰碑を建立した。
「私達はもう高齢だが、若い人が自由に往来して友好関係を強めてほしい。そうすればおじいさん(沙也可)の日本でのルーツも分かるかもしれない」という全在徳氏の言葉を反芻しながら、私達は友鹿洞の村を後にした。
金在徳氏の略歴
●1920年生まれ(現在87歳)。
●文禄・慶長の役で朝鮮国側に投降した日本人武将沙也可を祖先とする。
●大邱師範学校卒業後、清道郡教育長および国民学校長などを務めた。
●日本による韓国占領時代は、26歳に至るまで日本国民として日本語教育を受け、日本降伏後の5年間、国民学の教師として日本語を教えた
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